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猛者と呼ばれた理由
〜真奈美に会いに行ったある冬の日〜


  1月10日、早朝。
 いつものように日野森鳴牙氏のチャット「喫茶室ボナサン」でチャットをしていた。チャットにいたのは私一人だった気がする。

 するとどこからともなく、真奈美がやってきた。これはここのチャット独特のシステム、「SCS」によるものである。真奈美が来てくれるとは嬉しい。とはいえ、話すことも無いといえば、無い。  

 その時私の手元には「青春18切符」が2日分余っていた。JR線の全線完乗を目指していた私は、まだ乗っていない木次線(備後落合・広島県−宍道・島根県)に乗りに行こうと考えていた。しかし、2日目に少し時間が出来る。

 それじゃあ、高松に行こう。

 「ねぇ、真奈美? 15日あいてる? 会えないかなぁ?」

 私はそう訊いていた。
 いっつも高松に行って「この街には真奈美がいるのになぁ・・・」と思いながら歩くのは寂しかった。それならたとえどのような形であっても初めに誘ってから行った方がいいに決まってる。  

 私:「15日、高松に行こうと思うんだけど、会えないかなぁ」

 真奈美:「来てくれるんですか?嬉しいです・・・」

 1月13日、23:40。
 「ムーンライトながら」は東京駅を離れた。真奈美とチャットで約束して丸四日と経っていない。
 ながらの中では寝られたと思う。そんなにきつかった覚えはない。

 1月14日。
  定刻に大垣に到着して、乗り換える。普通列車で米原、新快速に乗り換えて姫路を目指す。真っ直ぐ行ったら姫路で時間があるので、いつもなら途中駅でちょっと下車したりするのだが、今回は下車しなかった。京都、大阪を通りすぎて姫路に到着。
 姫路でまずしなければならないことがある。バス乗車券の購入である。予定では 岡山→総社→(井原鉄道)→神辺→(福塩線)→塩町→(芸備線)→備後落合→(木次線)→宍道→(山陰線)→鳥取→(夜行バス)→三ノ宮→(山陽線)→岡山→(瀬戸大橋線)→高松→真奈美 である。これによって木次線に乗って、ついでに11日に開業したばかりの井原鉄道にも乗っちゃえと考えていた。鳥取からの夜行バスの乗車券を先に買っておこう、と思って姫路の近畿日本ツーリストに入った。そこでめでたくバス券を購入。バスの乗車時間は5時間ぐらいで4,000円弱である。
 駅前のローソンで食料をちらっと購入。早めに駅に入り、各駅停車の岡山方面三原行きに乗った。  岡山に無事到着。「高松行き」の電車にひかれるが、デートは明日である。私は総社に行くのに伯備線経由ではなくちょっと趣向を変えて吉備線の気動車に乗り込んだ。途中備中高松とか通って総社に到着した。
 総社は井原鉄道の開業で橋上駅舎に生まれかわっていた。ここで1日フリー切符1,000円也を購入する。片道の神辺までの料金よりも安い。開業記念の切符は大きな切符だった。 車両には開業記念の飾り付けがしてあった。この「井原鉄道」は平成11年1月11日午前11時11分11秒に開業した鉄道である。2両編成の気動車はJR西日本の新型気動車「キハ120」と同型であった。

 途中に「小田」という駅がある。小田といえばセンチ関係の人なら綾崎若菜の声をしている小田美智子嬢を思い出す人も多いだろう。私もそれを踏まえた上で駅名板の写真を撮るべきかいなか、迷った。が、撮ってしまった。アヤシイ人である。

 途中井原の駅で長時間停車があったが、特にすることもなく、そのまま神辺に着いた。神辺から私は福塩線に乗り換えた。福山行きではなく三次行きである。福塩線は昨年8月に乗った路線である。その時は三次に泊まってから朝の福塩線に乗った。福山から尾道に行って千光寺に登って優を探した記憶がある(笑)。その後「スーパーラビット」で広島に行ってお好み焼きを食べた後、可部線に乗って三段峡で優を探したはずである(笑)。
 その福塩線である。府中という駅で電車から気動車に乗り換える。府中の街に「松岡家具」だったか、「工業」だったか、とにかく「松岡」と名乗る会社があったのが見えて千恵を思い出した記憶がある。
 気動車はおなじみの「キハ120」だが2両編成であった。最初は景色を見て起きていたのだが、途中で眠くなってしまって、寝てしまった。

 気がつくと駅を出るところだった。駅名板は「塩町」・・・!? 私の乗り換える予定だった駅である。塩町は芸備線と福塩線の分岐駅で、この列車が塩町に着くと同時に反対側から芸備線の備後落合行きが来る予定であった。備後落合行きは2分停車の後に発車していって、この列車はその2分後、つまり塩町4分停車で三次に行くのである。
 「・・・・・・!?」 列車が塩町を離れていく。後ろの窓に見える塩町駅が小さくなっていく。備後落合行きは既に2分前に出てしまっている。  

 「すいません。塩町で備後落合行きに乗り換える予定だったんですけど、寝過ごして・・・」
 走行中の運ちゃんに話しかける。
 「あれ、出ちゃいましたよ・・・。次の列車で行ってもらうしかないですね・・・。あぁ、次の列車までだいぶありますね。一旦三次まで行ってそこで待って下さい」
 「はぁ、そうですか」

 運ちゃんに言ったところで塩町の駅には戻れないし、ましてや既に行ってしまった芸備線の列車に乗れるわけはない。備後落合に行くのが目的なのではなく、そこからさらに4分接続で木次線に乗る予定だったのだからこれから備後落合に行っても意味がない。あまりにもきれいに予定を立てすぎた。

 三次に到着。この街で過去に二泊したことがある。96年と98年である。とはいえ、困った。
 仕方がないので三次のバスセンターに行ってみた。バスで山陰に抜けられるはずである。すると、出雲市行き、松江行き、米子行きのどれに乗っても鳥取に行くことが出来、夜行バスに間に合うことが判明した。
 しかし、納得できなかった。バス料金が高い。4,000円ぐらいする。目的の木次線に乗れなかった上にバスで4,000円払うのはイヤである。そんな気持ちから出雲市行きのバスを見送った。その後郵便局に行って貯金を下ろした。いざというときのためである。その帰り道、松江行きのバスとすれ違った。
 バスセンターに戻ってきて、米子行きのバスを待つ。時刻表には米子行きのバスは「三次IC」という停留所に停まるとなっている。時間になっても米子行きのバスは来なかった。

 案内所のおやじに訊くと「米子行きのバスはここには来ませんよ。三次インターチェンジです。米子行きは・・・あぁもう間に合いませんね。」となった。

 予想通りだ。ここに来るのであれば「三次BC」か「三次バスセンター」と書くはずである。本当に乗る気であればタクシーにでも何でも乗って「三次IC」に行ったはずであるが、ここで、来ると思えないバスを待っていたこと事態乗る気がなかったのだろう。
 駅に戻る。三次は広島県北部の中心地であるが、大手旅行会社がなかった。仕方ないので駅前の広島電鉄系列の旅行会社で私の近畿日本ツーリスト(以下略称「近ツリ」)の乗車券が払い戻せるか訊いてみた。結果はやっぱりダメであった。仕方がないので電話で近ツリに聞いてみた。買った「姫路支店」ではなく、なぜか「広島支店」である。やはり無理だという。しかももう閉まる。
 仕方がないのでバス会社に電話をかけた。
 しかし、バスの出る前にバス乗り場に来て不乗証明を受けなければ払い戻すことは出来ないと言う。
 いや、私はバス乗り場に行けないから払い戻すのである。
 それではダメだというバス会社を説得してなんとか払い戻せることになった。しかし、発行箇所でなくてはならない。そうすると近ツリの姫路支店である。まぁ、いいや。

 いつまでも三次にいるわけにもいかないので、とにかく芸備線広島行きに乗った。
 

 広島。まさかここに来るとは思わなかった。大きな政令指定都市である。まぁ、なんでもいいや。

 広島に来たら「お好み焼き」と言うことで広電に乗って紙屋町へ行く。そこから「お好み村」へ行った。「お好み村」でどこに入ろうか・・・と迷っていると、一件の店のおばちゃんに元気良く声を掛けられたのでそこにすることにした。そこのメニューをみてびっくり。去年来た店である。このメニューに見覚えがある。その時も声を掛けられたので入ったと記憶している。たくさん店があるのにまた同じ店に入ろうとは・・・参った。
 お好み焼きは大変美味しかった。

 広電に乗って広島駅に戻る。そうして広島駅前のゲーセンに行った。ここのゲーセンには地方都市としては大変珍しいと思うセンチのプライズゲームがあるのだ。ちょこっと試してみる。明日香のミニクロスがあっけなく取れた。調子に乗って夏穂のミニクロスに挑戦する。しかし、これがなかなか取れなかった。結局収穫は明日香のミニクロスだけであった。これは後日ほりぴょんさんの元にもらわれていった。夏穂を取ったとしてもくるくるさんの元にもらわれていったと思う。真奈美?・・・なかった。

 広島駅は改築中であった。駅前広場にプレハブの本売場が出ていたのでそこに入ってみる。何か暇つぶしにいい本でも・・・と思った私は、「大石内蔵助」という厚手の文庫本を買った。

 いや〜、まさか広島に来るとは思わなかったね。
 そう思いながら山陽本線上り白市以遠に行く最終電車となる三原行きに乗った。三原から・・・電車はない。三原駅で5時間、駅寝である。呉線の竹原行きも最初は考えた。竹原から始発電車の出る三原まで25km歩くのである。5時間あれば時速5kmであり、歩けないこともないな、と思ったのであるがそれはやめた。そこで三原行きに乗ったのである。
 三原に午前0時に着いた。1月の三原はさすがに寒かった。駅が高架駅で風通しが良かったのも悪かった。
 0時半頃三原駅最終となる西鹿児島行きの寝台特急「なは」が出ていった。そのあとも駅には同じ目的らしい人間が5人ぐらいいた。こんな真冬に駅で夜明かしする人が他にもいるとは思わなかった。駅員に追い出されるかと思ったがそのようなことはなかった。
 私は、駅前のコンビニで肉まんを買ったり、フェリーターミナルに行ったりしながら始発電車までの時間を潰した。

 5時手前、待望の始発列車の改札が始まった。喜び勇んでホームに上がるとまだ電車はいなかった。寒いホームで少し待つと電車が来た。電車の中に入った瞬間「あったかい」と言える暖かさはなかったが、駅のベンチよりよっぽど柔らかいシートに腰掛けると、眠くなった。

 岡山に到着。

 「高松」という行き先表示に半分感動しながら「マリンライナー3号」に乗る。発車までしばらくあるようである。しばらくすると階段を渡った隣のホームに寝台特急「サンライズ瀬戸・出雲」が入ってきた。「サンライズ瀬戸・出雲」は東京から岡山まで一緒に走ってくる。ここで分割して「瀬戸」は高松に、「出雲」は出雲市に行くのである。動くのが面倒なので分割シーンは見なかった。「サンライズ瀬戸」が出ると、我が「マリンライナー3号」もまもなくである。

 岡山を出ると日が昇ってきた。私はまた眠ってしまった。
 

 高松。ついに着いた。

 しかし、予定は「マリンライナー5号」であったため、予定より1時間ぐらい早く着いてしまった。まだ真奈美は来てないだろうから改札前のうどん屋でじゃこ天うどん470円也をすする。高松に来たら改札前のうどん屋でじゃこ天うどんは北星の慣習である。

 うどんを食べ終わる。一息つき、気持ちを新たにして高松の改札を出た。
 

以下、ショートストーリーな気分で高松を綴る。
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 時間が早かったからか、真奈美の姿はまだ無かった。
 しばらくすると、向こうから三つ編みの女の子がやってきた。真奈美だ。

 ポン!
 「おはよう、真奈美。」
 「あ・・・お、おはようございます! ・・・本当に来てくれたんですね。あ、あれ?私、時間間違えちゃいましたか?」
 「いや・・・そんなことないよ。僕の予定がちょっと変わってね。一本前の電車で来たんだ。真奈美に早く会いたくて・・・」
 「あの・・・嬉しいです・・・」
 「ゴメンね。急に会えるかな、なんて」
 「そんな、謝らないで・・・。私、とっても楽しみにしていたんですから」
 「しかも3時間もないのに・・・」
 「短くてもいいです。私、あなたがこうして高松に来てくれただけでとっても嬉しいですから。」
 「そうか。僕も真奈美に会えて嬉しいよ。・・・それじゃ、玉藻公園にでも行こうか!」
 「は、はい!」
 

玉藻公園。 

 「玉藻公園に真奈美と来たのは、初めてかな?」
 「そうですね。栗林公園とか、小豆島には行きましたけど。」
 「玉藻公園には平成2年4月2日に来たことがあったけど、その時は真奈美と知り合う前だったからね。」
 「ふふふ・・・、もしかしたらその時すれ違っていたかもしれませんね。」
 「そうだね。・・・も少し早く、真奈美に会いたかったな。」
 「・・・・私も、あなたに早く会いたかったです。」

 玉藻公園の庭園の飛び石をトントンと軽やかに歩いて行く真奈美は、とっても可愛らしい。病院に入院している姿は見たくない。彼女が元気でいられるなら、一生見守っていたいと切に思う。

 「あそこは何かな?」
 少し高くなっているところがある。
 「天守閣の跡のようです」
 「よし!行ってみよう。」
 「ええ。」

 屋根付きの鞘橋を渡り本丸跡に行くと、天守閣跡へとのぼる階段がある。

 「・・・真奈美。」
 「・・・あ、ありがとう。」

 彼女の手を引いて、少し急な階段を上る。

 「・・・よし。・・・おぉ、きれいだね・・・。」
 「・・・ふぅ。・・・わぁ、きれいな眺めですね。」

 内堀に囲まれた天守閣跡からは園内が見渡せる。桜の馬場、中堀の先には琴電の線路があり、時々小さな電車がごとごとと通っていく。
 天守閣跡には神社みたいな小さな建物が建っていた。まさか、これが天守閣ではなかろう。パッとしない。   
 しばらくその建物の縁側に真奈美と肩を並べて座り、いろいろな話をした。

 「そろそろ、戻ろうか。」
 「・・・はい。」
 

高松駅。

 「真奈美、今日は、ありがとう。」
 「いいえ、私の方こそ、あなたにあって玉藻公園に行けて、嬉しかったです。」 
 「少し寒かったかな?」
 「えぇ・・・けれど、あなたに逢って、一緒に歩いているととっても暖かかったです。」
 「家まで送ってあげなくて、ゴメンね。」
 「そんな、気にしないで下さい・・・。」
 「・・・・・・それじゃ、また来るね。真奈美も体に気をつけて。」
 「・・・・・・はい。また、必ず来て下さいね。あ、あなたも、風邪などひかないで。」
 「うん。必ず来る。今日はありがとう。さよなら、真奈美。気をつけてね・・・・・・・。」
 「はい・・・・・・・・さようなら・・・・・・・。」

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 後ろ髪引かれる思いで真奈美と別れた私は、岡山行きの快速「マリンライナー」に乗った。しかし、岡山に行くことなく、次の坂出で降りた。坂出には杉原真奈美応援店がある。
 「応援店」とはグラフティ発売時あたりに各ヒロインの地元のCD店が協力として、ポスターを貼ったり、グッズを並べたりしていたらしい。私が「応援店」の存在を知ったのは昨年8月に、今は亡き「センチメンタルジャーニーオフィシャルHP」での書き込みを見たときであった。山本るりか応援店で誕生日祝いをするとかという書き込みがあったのである。その書き込みによれば、当時既に名古屋にある山本るりか応援店ぐらいしか活発に動いていないようであった。応援店の存在を全然知らなかった私は掲示板に質問を書き、寝台特急あけぼのさんから応援店の場所を知ったのである。
 そうして行ったその名古屋応援店で「応援店一覧」みたいな紙をコピーさせてもらった私は、その夏、京都、大阪、広島、福岡、長崎の各店を回ってみたのである。
 しかし、京都、大阪については店ごとなくなっていた。広島、長崎には応援店であったことを示すものすらなかった。唯一福岡の応援店に松岡千恵のポスターと応援店に関するポスターがあり、応援店というものがあったということを示していた。
 そのポスターによると、スタンプラリーもやっていたらしい。私だったら18切符を使って一気に回るのは軽いことなのにと思うとちょっと残念だった。センチを知るのが遅かった。

 とにかく坂出はその応援店があるところである。駅前のローソンで地図を見て場所を確認する。駅からちょっと離れているようだ。応援店に向かう。
 昨年夏は単独で行動していたが、現在は自分のおかれている事情がちょっと異なる。杉原真奈美に「会いたい」と呼ばれれば18切符の時期なら一週間以内に高松に行くほど好きである。その真奈美の応援店・・・。
 「等身大ポップの一枚でも、いやポスターの一枚でもいいから有ったらなんとしても欲しいな」と思いながら応援店に向かう。

 今日はマラソン大会があるようで、それらしき選手が集まっているスタート地点横断幕の脇を通って店に向かう。

 応援店は大変こじんまりとしたものだった。閑静な住宅地の中である。真奈美といえば真奈美らしい場所である。店の中に入る。一角にガラスケースがあり、その中に応援店で”あった”(過去形)ことを示すミニクロスなどのグッズがいくつかあった。とはいえガラスケースの上には他の物が置かれて中が見えにくい。そのことが応援店であることを過去形にしていた。もちろん、ポスターやポップの類は一つもなかった。
 たくさん出ているセンチのCDから私の持っていないCDを選んでレジに持っていく。ご当地に来たら記念にCDを買うというのは前から決めていたことである。昨年6月も高松のコトデンそごうの中のCDショップで真奈美のCDを買っている。
 レジで店員さんになにか真奈美グッズはないかと尋ねてみた。しかし、既にないと言われた。先に他の人達が真奈美を連れ去っていってしまったのだろうか。悲しいことである。ないと言われても出てくるまで粘るような見にくいことはしたくない(普通しない)ので、そのまま引き下がった。探せば出てこないこともないとは思うのだが・・・。CDを小脇に抱えて店を出る。

 元来た道を歩いて、坂出の駅に戻った。坂出からマリンライナーに乗る。あとは本当に東京に帰るだけである。無事にマリンライナーに座ることが出来、まどろみながら瀬戸大橋を渡る。真奈美を知ってから3回目の四国、5回目の瀬戸大橋であった。

 岡山から山陽線上り姫路行き普通列車に乗る。いつもは4両だが今回は3両と短かった。岡山で駅を探索することなくすぐに列車に乗って、座席を確保した。ここで座れないときつい。車内ではずっと広島で買った大石内蔵助を読んでいた。姫路でうどんのように白い不思議な立ち食いソバを食べて、新快速に乗り継ぐ。新快速でも大石内蔵助を読んだりしていたが、そのうち寝た。米原からさらに快速列車で名古屋。きしめんを食べた後、新快速で豊橋、豊橋から普通列車で浜松、浜松から普通列車で静岡、静岡から新幹線で三島、三島から普通列車で東京と帰ってきた。
 

 数日後、チャット「ボナサン」に行った。1月20日である。
 1月10日に真奈美をチャットに連れてきた鳴牙さんから、別件だったがICQで話しかけられたので、その返しに「ついしん:本当に高松に行ってきました」と付け足した。

鳴牙さん:「で、会えたの?」
私    :「そ、それは・・・会えましたよ!約束したんですから!!少し寒かったですけど、玉藻公園を散歩してきました。」
鳴牙さん:「ほぉほぉ」
私    :「・・・・・・(汗;;」
 
 

 さらに数日後、ボナサンに入室したときに七海さんをはじめとする数人から「こんば>猛者」と挨拶された。「猛者」とはどうも私のことらしい。「なぜ猛者?」と聞くと、「鳴牙さんがそう言ってた」というようなことを言われた。

 
 2月22日に鳴牙さんにICQで聞いてみた。

私    :「こ、こんばんは、鳴牙さん。猛者です(爆)」
鳴牙さん:「どしたでし?」
私    :「私は「猛者」?」
鳴牙さん:「と言う事になってるでし
       否定論は今の所聞かないでしよ(^^)」
 

 最初のうちはしっくりこなかった「猛者」ではあるが、「真奈美に会いに行ったこと」によって付いた名前ならいいのではないか。そんな気がした。そのうち、チャットで挨拶されるときの呼び名は「北星」より「猛者」が多くなっていた。一部には「hokusei」と7字の入力より「mosa」と4字の入力の方が短いから、という省力的意見もあるようだが。
 

 この「猛者」という呼び名が、私の「3・12誕生日浮気発覚事件」の反省手段に「高松で0.5mmの坊主」を選ばせた一因であり、それがさらに「猛者」の増幅に加担したらしい。
 

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 乗らなかった鳥取からの夜行バスの乗車券は秋葉原にある近畿日本ツーリストでめでたく払い戻すことが出来た。店員さんによると不乗証明がないものは払い戻せないとバス会社から言われたそうだが、何とか払い戻しを成功させてくれた。購入店でもないのに払い戻してくれた秋葉原の近畿日本ツーリストさんには感謝、感謝、である。
 

 杉原真奈美のためなら、例え火の中、水の中。「会いたい」と言われれば猛者は真奈美の元にいち早く駆けつけるでしょう。
 

猛者と呼ばれた理由
〜真奈美に会いに行ったある冬の日〜



※日野森鳴牙氏のチャット「喫茶室ボナサン」
今となってはとても懐かしい「センチメンタルジャーニーオフィシャルサイト」(http://www.senti-j.com/ 1998年10月31日限りで閉鎖)のチャットルームを受け継いだチャットの一つ。日野森鳴牙氏が管理するホームページ「Sentimental Room」の中にあった。センチと言えば、というようなそうそうたる面々が集まり、テレホタイムでは20人を越すのがざらというチャットであったが、1999年9月、参加者の内部騒動で解散、消滅した。その参加メンバーであったToday改さんが代わりのホームページとしたのが、チャット中心の「SCE」であった。そのチャットは、現在も続く「九品仏チャット」である。
「喫茶室ボナサン」はオフィシャルのチャットが停止した後北星が初めて参加したチャットでもあり、とても好きであった。今でも内緒で付けた直通ブックマークが北星のブラウザには残っている。

※SCS
喫茶室ボナサン内で行われていたシステムで、正式名称を「センチメンタルコミュニケーションシステム」という。早い話が「ナリキリ」で、管理者の鳴牙さんが裏入口からキャラ名で入ってきて応答するというものであった。SCS依存症患者が出ないようにするため、キャラが出てくることは稀で、某チャットのようにキャラのナリキリがままあるというようなことはなかった。